江戸時代の国際人「雨森芳洲」を参考に中国語の勉強
江戸時代に中国語と韓国語が堪能だった対馬藩の雨森芳洲という人物がいます。この人物を中国語の勉強という視点で取り上げたいと思います。
あることがきっかけで対馬藩の雨森芳洲の存在を知りました。対馬は地理的な要因から朝鮮半島との交易が昔から盛んに行われていました。江戸時代にそこで活躍したのが雨森芳洲です。
雨森芳洲のことを知り、さらに知りたいと思い一冊の本を読みました。
そしてそのことがずっと頭の中にありながら中国語を勉強していました。そして先日メルマガ読者さんから質問がありました。
もし勉強に役立つおすすめ本があったらご紹介お願いします。
直接中国語の勉強に役立つわけではないけどわたしとしてはおすすめの本です。おすすめの本というよりおすすめの人物です。
ではどんな人物なのか紹介します。ここでは中国語の勉強の視点で紹介します。
雨森芳洲/元禄享保の国際人
上垣外憲一(著)講談社学術文庫
対馬藩の雨森芳洲はここがすごい
五代将軍徳川綱吉から八代将軍徳川吉宗の時代を雨森芳洲は生き抜きます。徳川幕府の政治も安定し鎖国も強化されていたことでしょう。そんな中で外国語を学ぶなんて少数派もいいところ、ごくわずかな日本人しか中国語を話せなかったに違いありません。
少数派でいい!
対馬藩の雨森芳洲ですが対馬ではなく江戸と長崎で中国語を学びます。藩邸があるからです。藩邸に派遣されるほど雨森芳洲は優秀だったのです。江戸で中国語を勉強していたのは木下順庵くらいだったと本には書いてあります。雨森芳洲が学び始めた後荻生徂徠も中国語の勉強を始めたとあります。新井白石とも交流があったとされています。
長崎は鎖国の中で出島があり外国との交易が許された場所。ここに中国人もいて通訳をやっている人も江戸時代にいたと記されています。長崎でまた中国語を雨森芳洲は学びます。
現場に行って学ぶ!
対馬に帰った雨森芳洲は今度は釜山に派遣されます。この時代釜山には倭館がありました。ここで朝鮮語を学び始めます。必要に迫られたのでしょう。
雨森芳洲の朝鮮語の感想がこう書いてありました。
勉強した朝鮮語は中国語に比べればやさしく、朝鮮語は日本語とほぼ同じ文法を持ち、てにをはにあたる助詞があり、動詞の活用も似ている。中国語は動詞と目的語の順が反対になる。
江戸時代中期に中国語と韓国語を修め比較できる人物はほとんどいなかったでしょう。雨森芳洲のすごさは中国語で終わりではなく学問を続けたことです。
江戸時代に多言語を話せる!
江戸時代にしては長生きだというだけですごいこと。さらには82歳で和歌の勉強を対馬で始めます。外国語を学んだからこそ日本の良さに気付いたのかもしれません。
82歳なのでのんびり勉強していると思いきや全然違います。誰よりも精力的に勉強します。
古今集を1000回読破
作歌は1万首を目指し最後は2万首を越える
量が質を越えることを江戸時代でも80歳を過ぎても知っています。これは現代の人も見習うべき点です。
晩年は対馬の四季折々のことを詠んだそうです。
何歳からでも新しい学問に挑戦!
まとめ
江戸時代の国際人、雨森芳洲のすごさを現代の中国語の勉強法に活かそう。